誕生~小学生


1987年(昭和62年)1月27日の夜中、滋賀県で生まれました。
予定日から2週間過ぎての誕生だったため、髪の毛はフサフサ、爪ものびのびの状態でした。
生まれた私は3人姉妹の末っ子で、一番上の姉とは10歳違い。そんな年の差を打ち破るかのように、ガラス製の哺乳瓶で姉の頭を叩いて泣かせたことがあったとか(強い)。


3,758gのビッグベビー誕生

休みの日は祖父母と一緒に畑で過ごしたり、脱サラして自営業(看板屋)を営んでいた両親とトラックに乗って滋賀県内を駆けまわったりしていました。
両親の仕事中は一人ぼっちでしたが、休憩中や帰り道に親子3人で食事をするのがとても嬉しかったのを覚えています。


服は姉のおさがりが多め

目立たずひっそり過ごしてきた小学生時代ですが、小学4年生で友達との関係がうまくいかなくなってからは、学校へ行くのがしんどくなりました。
母に「今日の給食は揚げパンだから!」などと励まされながら憂鬱な気持ちで学校に通い、休み時間は逃げるように図書室へ。辛い経験でしたが、本を好きになれたのはこの時があったからだと思います。
5年生に上がるとクラス替えもあり、いつの間にかクラスにいづらい状況は解消されていました。

中学生~大学生


中学校では、エリア内の2カ所の小学校に通っていた生徒が集まります。
私のいた小学校はどちらかと言えばおっとりした性格の子たちが多かったように思います。対して、もう一方の学校の子はやんちゃな子がいたり、年上の彼氏のいる子がいたり…まるで違う世界。
その友人たちからの刺激を受けつつ、ちょっと意気がりながらも、青春を謳歌した中学時代でした。

高校は母のススメと、父・姉の母校でもあった商業高校へ進学。
簿記と情報処理の授業に出会い、それまで好きではなかった勉強を面白いと思うようになったのもこの頃です。
…が、勉強よりも頑張っていたのは今でいう「推し活」でした。
中学3年の部活引退後くらいからゲームにハマり、高校からは気の合う友人と同人活動やイベント参加にいそしむようになりました。その後もいろいろな作品に手を出した結果、いつしかテレビで流れた声を聞いて声優名を早押し回答するような体になっていました(たぶんオタクあるある)。
ちなみにガンダムSEEDをリアルタイムで見ていた世代です。

さあ、そんなオタクも気が付けば高校卒業の年。
私の母校は今でこそ進学する生徒さんも多数いらっしゃるようですが、当時8割くらいの生徒は就職。
私も就職するか、そうじゃなきゃ専門学校かなとぼんやり考えていましたが、大学の推薦枠に申し込めることがわかり、これまた母と当時の担任の先生のススメで立命館大学に進学することになりました。

大学では経営学部 起業家養成コースで学びました。
実際に起業する同級生もいましたが、私は第2外国語で専攻していた中国語が楽しすぎて、気が付けば交換留学で中国の地を踏んでいました。
留学先は中国・吉林省の吉林大学。
吉林省は旧満州ともいわれ日本とも深い関係のある街で、ロシアと北朝鮮の国境にも接している街でもあります。
そして、私が運命の出会いをした街でもありました(詳細はのちほど)。
18時間オンボロバスに軟禁状態になったり、友達のカバンをスリから守ったり、旅先の西安で城壁をチャリで爆走したりしたのはいい思い出です。


早朝、西安城壁を爆走

何となく中国語を話せるようになった1年後、帰国した私は大学4年生。
そう、すっかり忘れていたのです――就職活動のことを。
大学の就職支援センターでは留年を勧められましたが、ダメ元で夏からでも応募可能な企業を探して応募。奇跡的に夏中に内定をいただくことができました。

そして、その年の秋に起こったのがリーマン・ショック。
幸いなことに私は予定通り内定式を迎えましたが、同級生の中には内定切りに遭った人もいるようでした。もし留年していたら厳しい環境で就活することになっていたことを思うと、本当に運がよかったとしか言いようがありません。

社会人生活と苦い思い出


大学卒業後は大阪に本社のある家電メーカーに就職。
新入社員研修ののち、私は中国・香港向けの家電輸出を担当する部署に配属されました。
念願の中国語環境での仕事。駐在も経験させてもらい充実した毎日でしたが、大企業の枠組みの中で次第に自分の存在意義を考えるようになる日が増えていきます。そして、入社からまもなく3年が経とうかという頃に退職しました。
「明るさを失う前に決断できてよかったね」
退職挨拶後に、新入社員の頃からお世話になっていた先輩から返ってきたメールで自分がいかにドイヒーな状況だったのかがわかります(笑)。
まだ社会に出たばかりの小生意気な私に色々教えてくださった先輩方、励ましあった同期、駐在中に妹のように可愛がってくれた中国人の同僚には感謝しかありません。

さて少し時を遡って、大学での就職活動時。
私には「就職」以外にもうひとつの選択肢がありました。
それは「海外に住むこと」。
実は当時、私にはお付き合いしている人がいました。お相手は5歳上の韓国人で、中国留学中に出逢い、交際が始まりました。
当初から「結婚前提じゃないと付き合わない」と宣言して、交際数か月後に左手薬指用の指輪をくれるような人でした。男性と付き合った経験も少なく、まして韓国人男性の性格なんて1mmも知らない私です。「ちょっとヤバい人?」とか「騙される」といったワードが一瞬脳裏をよぎりましたが、そこまで真剣に考えてもらえるというのは嬉しくもありました。…とまあ、そんな彼ですので「日本で就職してもいいけど、こっちで永久就職すればいいじゃんない?」という言葉が出てくるのは至極当然のことでした。
結局、私が日本で就職することが決まり、遠距離恋愛がスタート。メールや電話などで連絡を取り合い、2~3カ月に一度お互いの国を行き来する生活が始まりました。
私が退職を考え始めたのは、そんな遠距離恋愛に疲れてきたというのも理由のひとつでした。渡韓することを決め、会社に退職を告げた前後だったでしょうか。彼の海外駐在が決まり、計画は頓挫。寿退社に近い形で辞めようとしていたはずが、私は無職で会社を去ることになりました。
それでも「きっといつかは韓国に行くだろうから、日本・韓国どちらの国にいても収入になるようなことを探しておこう」と前向きに考えて、ゲームのシナリオライターを生業にしたり、日本語教師の資格を取ったりと、私なりに模索する日々が続きました。

でも、そうこうしているうちに会う回数も減って、連絡の回数も減って。
いつまでこのままなんだろう。彼を信じていいのかな。
これだけ長い間付き合ったのに結婚できないなんてある?
会社を辞める時は、韓国遊びに行くねってみんなに送り出されたのに。
合わせる顔がない。恥ずかしい。みじめ。
いろいろな思いがありましたが、ただ過ぎていく時間に虚しさを感じ、結論を出すべく単身渡韓しました。
私はいつの間にか27歳になっていました。

現地に着いて、彼に電話。
でもなにを話したか、あまり記憶にありません。
最後はカカオトークのメッセージで「もう会わない」みたいな言葉が返ってきていた気もします。
私に至らない点はいろいろあったと思います。
私への興味が薄れたのか、心変わりがあったのか。今となってはわかりません。
付き合ってから7年、本当にあっけない最後でした。

気が済むまで泣いた後は「せっかくだから韓国を満喫して帰ろう!」と思い直して、現地の大学(語学校)に通いながら、数ヶ月韓国に滞在することにしました。
お付き合いしていた時は、英語・中国語がメインで、お互いの母国語はカタコトでしか話せなかったのです(どんな環境)。
別れたのに今さら韓国語を学んでどんな意味があるのかという気もしましたが、7年の歳月はあまりにも大きすぎて、何か理由をつけてでも心を整理する期間が必要でした。


スンドゥブチゲがしみる…

スピード婚からの初めての出産


帰国後、ほどなくして就職活動を始めました。
履歴書上は家電メーカーの正社員からゲームのシナリオライター(フリーランス)への転職となっている、こんな変わった人間を受け入れてくれる会社はあるのだろうかと一抹の不安はありましたが、幸運なことにとある企業の企画室に派遣社員として採用されました。

そうして始まったのは、職場にも上司にも恵まれ、仕事にもとてもやりがいを感じる日々。でも悲しいかな、この職場は役員レベルの方が多くて年齢層が高いので出会いがない。「恋愛はもういいかな」という気持ちもあったのですが、アラサーを目前に控え、自分の焦りと親の心配もあり、婚活パーティーに繰り出すことにしました。

年明けからは1カ月間、毎週末、関西のあちこちの婚活パーティーに参加。
カップリングが成立したこともありましたが、二人でお食事をしても「この人だ!」というビビッと感がない。
平日は仕事、毎週土日は婚活パーティーで回転寿司(男性が女性席の前を自己紹介しながら順番に移動していくサマ)を繰り返し、疲労感マックス。
「もう一生一人でいいかも…」と思って、やる気ゼロ(笑)で参加した婚活で出会い、ビビっときたのが今の主人です。
出会って半年で同棲、その半年後に結婚。
人生なにがあるかわからないものです。


めちゃくちゃダイエットした


そして結婚の翌年には長女を出産。
同時にマイホームが完成し、居を移しました。

皆さんそうだとは思いますが、初めての育児は緊張と不安だらけ。
産後の情緒不安定も重なって、長らく不安な気持ちは続いていたように思います。
何かの雑誌でお金の特集を見たのも、その時期でした。
「子どもの教育費、ちゃんと準備できるんだろうか。お金のこと、このままじゃまずいよね…」
結婚してからというもの家計管理は私が行うようになっていましたが、家計簿はただ付けているだけ、何をどうしたらいいのかもわからない状態です。
気合いを入れて買ったお金の本は難しい言葉がいっぱい書いていて、気が付いたら2ページも読まないうちに寝てしまう始末。
焦りだけを抱えたまま、いつしか職場復帰の時が目前に迫っていました。

職場復帰といっても産前は派遣社員なので、基本的に元の職場には復帰できません。正社員枠を探すことも考えましたが、二人目も考えていたので働き始めてすぐに妊娠・出産になることを思うと選べませんでした。
育休が明けると同時に、再び派遣社員として就業を開始しました。
新しい職場では同じ歳のお子さんを持つ理解ある上司に恵まれ、次女を出産するまでの1年半、その後の産育休明けにも復帰先を用意していただくなど、大変お世話になりました。


てぇてぇ…(訳:尊い…)

お金の失敗と、心に決めたこと


さて、育休が明けて働き始めた一年目。
私はお金と向き合わざるを得ない大きな失敗をしてしまいました。

子どもが生まれるまでは、主人も私もお互いに収入があったので「扶養」という働き方を考えたことはなかったのですが、育休後は初めて扶養の範囲で働くことになりました。
よくわからないけれど、とりあえずお給料を年間103万円に納めておくとお得らしい。ネット情報をそのまま鵜呑みにして、主人の会社に申請を出しました。そして自分ではちゃんと計算したつもりで、1月に源泉徴収票を見てみると…

「な、ななな、なにーーー!103万8,000円だとーーー!?」

えっ、どこで計算ミスした?
こ、これはものすごく税金が増えるのでは!?

…と思いきや、そんなことはなく。
「な、なんだ。何もないじゃん…」
と、ホッとしたのも束の間。
主人の会社から家族手当返納についてのお知らせが届きました。
翌月の主人の給与は、これまでの家族手当支給分が差し引かれて大幅ダウン。
生活費のことを考えた私は、目の前が真っ暗になりました。
また、手続きで主人にも、主人の会社にも迷惑を掛けてしまいました。
これは私の不注意もそうですが、そもそも制度をきちんと理解せず、お得につられた自分のお金に対する知識のなさが招いた結果だと痛感。
「目の前の損得で情報に振り回されず、お金のことをちゃんと学ばなければ」と強く感じた瞬間でした。

同時に「子どもたちには私のようなお金の知識がない大人になってほしくない。生きていく上で欠かせないお金のことをちゃんと学んでほしいから、マネー教育をしていこう」と心に決めます。
でも、どうやって教えたらいい? なにを教えたらいい?
そんな時にFP(ファイナンシャルプランナー)の資格があったことを思い出し、勉強をスタートさせました。

FPになったきっかけ


こうしてFPの勉強を開始したわけですが、その過程で登場したライフプランニングの考え方に衝撃を受けます。

「ライフプランニング(人生設計)」とはざっくり言うと、今後の人生で起こりうること(ライフイベント)とその際に発生するお金を洗い出すことで、将来必要とされるお金の見通しを見える化する一連の作業のことです。

雑誌に子どもの教育費は約1,000万円と書いてあるけれど、そんな大金どうやって用意すればいいのか。
老後資金が必要だというけれど、いくら必要なのか。
投資がいいというけれど、いくら投資すればいいのか。
そうした問題ばかりが詰みあがってモヤモヤと不安が募っていたところ、
――今まで私が知りたかったのはこれだ…!
ライフプランニングの考え方がグサッと刺さりました。

もちろん、人生には何が起こるかわからないので「ライフプラン=絶対」ではありません。それでも将来のことを見える化できたことで、お金のことを過度に心配したり、将来を不安に思う回数が減りました。ちょうど今後の働き方で悩んでいた時期でもあったのですが、先を見通せたことで起業という選択に繋がりました。

その後「かつての私と同じようにお金の不安やモヤモヤを抱えているママや女性の力になりたい」という思いからFPの資格を取得。
独立系のFPとしてお金の知識の普及活動を始め、現在に至ります。


よろしくお願いします。